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    肝気虚によるうつ病と不安障害(前篇) 梅の木中医学クリニック 川又 正之
中医臨床、通巻152号 掲載 

【初めに】
肝気虚の弁証は成書で見ることは少ない。ただ最近は肝気虚による症例報告が徐々に増えている。それには胸脇痛、高血圧、慢性疲労症候群そしてうつ病、不安障害などの報告がある。一般にうつ病の主要病機は肝気郁結であり不安障害では心胆気虚と見る傾向が多い。しかし肝気虚によるうつ病、不安障害も結構潜在していると考えている。その根拠を文献と症例報告から以下に考察した。
【うつ病について】
結果1:肝気虚の定義
《中華人民共和国国家標準・中医臨床診療述語》によれば、「肝気虚は両脇脹悶して情緒は低調でつかれ息切れ、頭暈、眼がちかちか、舌淡脈弱が良くみられる」とある1)。陳家旭2)は肝気虚の診断基準として、1)気虚の症状、2)情志の改変、3)肝経部位に異常、4)月経不調或は痛経、それに脾気虚が伴うことがあるとしている。ちなみに王雪榕は肝気虚の47%に不安障害、抑郁がみられたと報告している3)。
結果2:中医学の抑郁症と西洋医学のうつ病について
中医学で抑郁症を弁証すると肝郁气滞、肝郁脾虚、肝郁痰阻、心脾两虚、肝腎陰虚に分かれる(表1)。前三者の主要病機は肝気郁結で主要症状は精神抑郁であり、虚証である後二者の主要病機は心脾両虚と肝腎陰虚で主要症状は情緒低落である。中医学では「抑郁」の意味は忧愤煩悶であり4)、憂い怒りいらいら悶々の情緒である。すなわち「抑郁」とは興奮性心情と情緒低落の心情を併せ持った情緒になっている。ところが西洋医学のうつ病も中国では抑郁症と表記する。ICD-105)ではその症状は「抑うつ気分、興味と喜びの喪失、および易疲労性」とあるから主症は情緒低落といえる。つまり西洋医学のうつ病の「抑郁」は情緒低落を意味している事になる。つまり「抑郁(症)」には二つの意味があり混在して使われるので注意が必要である。
結果3:うつ病の病機
うつ病の主要症状は情緒低落であるから、うつ病は中医学の抑郁症(表1)6)の虚証の部分に相当すると曲水は述べている3)。弁証は心脾両虚、肝腎陰虚である。その病機は心虚により神明が失養すること、くよくよ思い悩んで気が結し脾が傷害されること、腎虚で元気不足になり恐怖から気が下ることなどがあげられる。また肝の虚については肝陰血不足よりは肝気虚の症状「抑郁寡歓、意思消沈、倦怠、無力、少気懶言、ため息」の方が情緒低落により関与している(表2)。その病機は「肝が虚し謀ができない」つまり、やる気がおきないことによると考えられる。
表1 抑郁症の弁証:精神科中西医診療套餐6)


弁証  

主要症状

肝郁気滞

精神抑郁、情緒不定、焦り。煩躁、思考遅鈍、胸部満悶、胸肋脹痛、胸悶噯気、舌質紫暗、苔薄白、脈弦

肝郁脾虚

情緒抑郁、易憂、易考、世を悲観、ため息多い、疲れ食欲ない、両脇脹満、腹脹腹寫瀉、舌質淡紅、苔薄白、脈沈細

肝郁痰阻

精神抑郁、胸部胸悶,胸肋脹満、喉詰まり感、苔白膩、脈弦滑

心脾両虚

情緒低落、多思善疑、心悸易驚、悲しみ泣く、頭暈疲れ、失眠、健忘、納差、便溏、舌質淡歯根、苔薄白、脈細、細弱

肝腎陰虚

情緒低落、精神萎靡、自罪自責、健忘、少眠、頬紅、盗汗、耳鳴、腰酸、舌紅干、苔薄白、脈弦細数

表2  中医蔵象学7)


弁証

主要症状

肝血虚

虚労、眩暈、不眠、雀盲、月経不調

肝陰虚

心煩易怒、眩暈、耳鳴、両目干燥、頬紅、脇肋灼痛、爪色不良、筋肉顫動、潮熱、盗汗、失眠、夢多、口燥咽干、舌紅少苔、脈弦細数。

肝気虚

抑郁寡歓、意思消沈、倦怠、無力、少気懶言、ため息、胆怯善恐、
脇肋疼痛、労作に耐え難い、頭暈自汗、食欲不振、口苦

結果4:肝気虚による抑うつ症の症例(表3)
肝気虚によるうつ病の報告も最近は見られるようになった。老師の症例報告をみると治療には黄耆を主体にして柴胡を少量加味しているようだ。
表3 


老師

症状

治療

孟艳彬8)

憂郁

黄芪、肉桂、白术、菊花、酸枣仁、何首烏、吴茱萸、柴胡、当帰、白芍、肉苁蓉、甘草

赵一峰9)

神経官能症
(疲れ無力)

升補肝気湯
生黄芪20升麻5柴胡5桔梗5白芍l0当归10川楝子10生麦芽15桂枝5甘草6

谢冬梅10)

疲れ無力、頭昏、郁郁、易驚、不眠、脇痛、性欲ない。疲れると酷い。

黄耆30党参15枸杞子15熟地黄15白芍15炙甘草10当帰10柴胡3

結果5:抑郁症の弁証で、肝気郁結が主である理由
中国学での抑郁症569例の症状から多いものを調べると情緒低落92.8%、無力84.4%、神疲79.1%、心神不安75.6%、失眠74.2%、易怒65.6%であった11)。日本人でもイライラはあるが易怒は少ない。またイライラより落ち込みの方が強い。これは国民性の違いであろう。弁証では肝郁脾虚が35.3%と最多で、ついで心脾両虚14.2%、肝腎陰虚12.5%、痰濁内盛10.4%、気滞血瘀8.6%、心肝火旺6.5%と続く11)。肝郁脾虚の症状は「神疲、無力、倦怠、情緒低落、心煩不眠、易怒、心神不定」とある。情緒低落92.8%、易怒65.6%の差を考えると、易怒がない情緒低落の場合は心脾両虚または肝腎陰虚と見なしていることが伺える。つまり赵一峰9)のいうように肝気虚は他の弁証に組み入れられているのだろう。
【不安障害について】
結果6:不安障害の定義、症状
不安障害とはICD1012)によれば、慢性に続く不安で種々の精神・身体症状を伴う疾患であり、恐怖性不安障害と他の不安障害とにわかれる。不安の定義は、「明確な対象を持たない恐怖」の事を指し、症状は「不安が6か月以上続き、①心配(将来の不幸がきがかり、イライラ感、集中困難)②運動性緊張(そわそわ落ち着きがない、筋緊張性頭痛、振戦、身震い、くつろげない)③自立神経性過活動(頭ふらつき発汗、頻脈、呼吸促拍、心窩部不快、眩暈、口渇)が通常は数カ月以上あること」となっている。ここで重要と考えるのは、情緒面では不安と興奮症状があるが情緒低落の症状がないことである。
結果7:不安障害の弁証
『恐怖性不安障害』の弁証は腎精不足・胆気虚・気虚血虚であり13)、虚証のみの弁証になっている。『その他の不安障害』は焦慮症13)に相当し、その弁証は心胆気虚・心脾両虚・陰虚内熱・痰熱擾心・瘀血内阻である。文献では最多の弁証も様々である。崔欣15)によると80例の弁証の内訳は心胆気虚24例、心脾両虚22例、肝郁脾虚9例等であり心胆気虚が最多とする。朱晨军は肝腎不足16)が最多とする。杨春霞17)は心脾両虚が最多とする。冯辉老師16)は、最初、気郁化熱狭痰で実が多いが、病が長いと心肝虚、陰虚火旺で虚が多いとする。唐后盛16)は、最初は虚で、長くなると実が増えるとする。ICD10でも不安障害は多彩に分類されているので12)報告者によって差異がでるのであろう。臨床中医では心虚胆怯が主である14)としている。
結果8:不安障害の病機
上述の報告から病機としては心腎脾肝胆の虚と邪実(気滞血瘀、痰湿、内熱)が関与している。そのうち主な病機としては、「腎の志は恐」から腎虚がある。胆虚の場合は胆主決断ができなくてよく驚き恐れやすくなる。脾虚は思い悩むことにより思則気結、思則傷脾になる。さらに筆者としては「肝気虚則恐」18)から肝気虚があげられることを主張したいそれらが心の神明に影響して不安になる。
結果9:肝気虚による不安障害の症例(表4)
黄耆を主にして白芍、肉桂などを共通に使用している。
表4


老師

病名

症状

弁証・方剤

孟艶彬
8)

産後
パニック

心神恍惚として憂郁、疲労。食欲不振、反応は遅い。脇腹硬く張る。月経遅れ、少腹寒痛、不眠、舌質淡、脈沈遅微弦

肝陽虚
黄耆、党参、杜仲、沈香、仙霊脾、肉從蓉、肉桂、酸棗仁、呉茱萸、当帰、白芍、甘草

劉躍琴
19)

対人
恐怖症

幼少より易怯、孤独が好き。時に失神する。仕事に興味なく人と話すのを嫌がる。舌質淡紅、苔薄白、脈沈弦無力

弁証;肝気虚
黄耆20丹参9白芍9桂枝6茯苓10炙甘草3

結果10:心虚胆怯と肝気虚の違い
心虚胆怯の主症状は心悸、びくびくして恐れ不安である。やる気はあるが怖くてできない感じである。ただ進行するとうつ病も併発して情緒低落する。肝気虚は情緒低落が主で、それに肝気虚則恐から不安も出てくるという違いがある。文献から不安障害の症状15)は80例中、神疲78例、煩躁78例、注意散漫78例、疲れて無力78例、憂うつ77例、不眠77例、緊張76例、恐れ75例、胆袪易驚74例、易怒72例となっている。憂うつ症例が多いことは肝気虚を併発していることが多いと考えられる。病機としては「肝は謀ができ、胆は決断を主る。」から考えられる。肝気虚なら落ち込み、やる気がでないので謀ができない。胆虚なら謀までできても勇気が出ず決められない。
結果11:肝気虚と心虚胆怯の治療
肝気虚の治療については「肝気虚証中医臨床研究概况」20)より甘緩、酸収が肝気虚の原則で甘温なら虚寒も除けるので「黄芪、党参、山萸肉、续断、菟丝子、肉苁蓉等」が良しとする。甘酸では乌梅、五味子、木瓜、山萸肉または枸杞子、芍药、甘草、酸枣仁等も良しとする。張錫純は黄芪・山茱萸、または黄耆・桂枝が良しとしている21)。赵一峰は升補肝気湯:生黄耆20升麻5柴胡5桔梗5白芍5当帰5川楝子10生麦芽15桂枝5甘草6を創作している9)。胆気虚では朱晨軍が広汎性不安障害19編の論文から以下のようにまとめている。「用薬は疏肝理気、袪湿化痰、清熱瀉火、腎陰補血、温経通脈、補腎益精、寧心安神、重鎮安神,固表止汗であり種々雑多である。生薬の使用頻度は多い方から甘草、茯苓、酸棗仁、柴胡、白芍、川芎、竜骨、大棗、当帰、半夏、小麦、枳穀、遠志、の順になる」としている16)。
【考察】
中医学の抑郁症では、その原因は肝気郁結で抑郁(忧愤煩悶:興奮と情緒低落の混在)症状が多いとされている。しかし、西洋医学のうつ病の症状は情緒低落が主であるから肝気虚が主であると考えられる。陈家旭2)によれば肝気虚とは1)気虚の症状、2)情志の改変、3)肝経部位に異常、4)月経不調、が主である。特に情緒面にかんしては47%に不安障害、抑郁がみられるという。
一方不安とは対象のない恐怖であり、病機は心虚胆怯・心脾両虚・肝腎不足などが多い。しかし肝気虚則恐から肝気虚も考えられる。肝気虚の不安はやる気のない不安が特徴であろう。ただ成書には肝気虚の記載がないものが多い。これは肝気虚の認識が不十分なためである20) 。最近では肝気虚によるうつ病、不安障害の症例報告が出
はじめている。今後は肝気虚の認識が大事であると考える。
文献   (D)は学位論文の意味
1)包祖暁:抑郁症診治心悟、p48、人民軍医出版、北京、2014年
2)陳家旭:試述肝気虚的診断止与鑑別、中医薬研究、p11~p12、1993年第6期
3)王雪榕:从肝气虚探讨郁病证治、黒竜江省中医薬科学院(D)、硕士学位論文学号2013007、2016年
4)王立国:“抑郁”的詞源考釈,江西中医学院学報,第23巻第1期、p14~p16、2011年
5)融道男ほか:ICD-10精神および行動の障害、p131、医学書院、東京、2004年
6)張宏耕:精神科中西医診療套餐、p206~p208、人民軍医出版、北京、2013年
7)王琦:中医蔵象学、p277~p283、人民衛生出版社、北京、2005年
8)孟艶彬;从肝阳气虚 論治神経衰弱的体会、承徳医学院学報、15(4)、p300、1998年
9)趙一峰:浅談肝気虚証治、中医研究、2月第8巻、第1期p35~38、1995年
10)謝冬梅:肝気虚证的臨床意義、浙江中医雑誌、11月号325102、p4~p6、2005年
11)尹冬青:抑郁症中医証候分型诊断量表及証候特徴研究(D)北京中医药大学, 2013年
12)融道男ほか:ICD-10精神および行動の障害、p145~p155、医学書院、東京、2004年
13)張松:実用精神疾病中西医治療、p819~820、人民軍医出版、北京、2010年
14)王永炎:臨床中医内科学、p734~p738、北京出版社、北京、1993年
15)崔欣:基于仲景情志病証治理論的焦慮症病因病機研究(D)山東中医薬大学,  2014年 
16)朱晨軍;中医薬治療焦慮症的研究進展(D)、北京中医药大学、2007年
17)楊春霞; 焦慮症的中医証候臨床分析、北京中医薬大学学報、p4~p7、2006年
18)尚志釣:中医八大経典全注(霊枢経),p93、華夏出版社、北京、1994年
19)劉躍琴:肝気虚治験挙隅、河北中医薬学報第17巻第2期、p8、、2002年、
20)趙益梅:肝気虚証中医臨床研究概况(D)、山東中医薬大学学報、第29巻第1期、2002年
21)張錫純:医学衷中参西録、p414、河北科学技術出版社、石家庄、2002年
22)篠原明徳:肝気虚の理法方薬〈前篇〉、中医臨床133号、p38~p43、2013年

 
 
 
 
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