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     『五雲子腹診法』の作者はだれか? 梅の木中医学クリニック 川又 正之
漢方の臨床、64巻7号 掲載 

【初めに】
五雲子(1588年-1660年)とは明の時代の郡守の子で、難を逃れて来日帰化した医師である1)。江戸で医術の行商をはじめた。「脈とろう、脈とろう」と歩いたらしい。やがて、技量を認められ御殿医に推される。異国人のため果たせなかったが、江戸時代の医家である森家(七代目は森立之)に中医学を伝授した。著書が2冊あるが、『五雲子腹診法』2)という腹診書のみが彼の名を広めた業績になっている。一財産を築くが息子は放蕩三昧でそれを使い果たしてしまう。墓は三田の大乘寺にある1)というが、その寺院は現在存在しない。そもそもいつ来日したかも定かでない。そんな彼の激動の半生に私は興味をひかれた。そして『五雲子腹診法』でさえ彼の作ではないといわれる顛末を知って、研究してみようと思い立った。
【考察】
『五雲子腹診法』は江戸時代の医家丹波元堅(多紀茝庭)が1843年に書いた腹診書の集大成『診病奇侅』に記載された7頁ほどの腹診書である。その冒頭に「男雲統筆記、森養春院法印伝家秘本」との記載がある。腹診書としては早期の作品であり、この書のみ巻末に全部掲載されているので目を引く存在になっている。作者をめぐっては諸説ある。丹波元堅は「唐山には腹診法がないから、来日後、日本の技術を真似て書いたのだろう。」という3)。森立之は「森雲仙君(五雲子の二番弟子で森養春院のこと)の発明であろう。文頭に家君曰くとあるが五雲子作なら師伝とすべきであるから、雲仙の発明は明らかである。五雲子の作とは誤伝だ。」という3)。この見解が主流のようだが、中村昭は『五雲子腹候論』4)という本を紹介して、五雲子自身が腹診を広く行っていたことを述べている。私はこれらの説の問題点を以下に検討してみた。
まず、中村昭の『五雲子腹候論』を見てみよう。この本は文政7年(1824年)に岩代国(福島県)で筆写されたもので年代はかなり下る。その中で「臍より上は痞強く、左右のあばら下までさし痞え、或いは袋の内に石を入れたる如く腹にたり、ひみつ(●●●)ありて動気強く、或いは曽て以て動悸かいなく、腹にかたつりの有るを変実と云て、悪しき腹とはするなり」という一文がある。このくだりが、『診病奇侅』に記載されている高村良務の文章5)と酷似している。そこには「臍より上は痞強く、左右の・・・腹にたるひ(●)つみ(●●)(松井本、偏歪)ありて、動気甚だ強く、・・・悪しき腹とするなり」とある。この二文の相違点は「ひみつ」と「ひつみ」のみである。内容からみて、後者のひつみ(歪のいみ)の方が本意に近いと考えられる。高村良務は「腹診秘伝、寳暦中の人」6)とあり寳暦は1751年~1764年だから、この間に書かれた書物であろう。また『五雲子腹候論』には津田玄仙(1737~1809年)の記述をそのまま引用している箇所もあり、内容も『五雲子腹診法』とはかなりかけ離れている。五雲子は1588年~1660年の人だから、『五雲子腹候論』はおそらく後世の人が高村、津田などの書籍をもとにつくった贋作であろう。
次に『五雲子腹診法』を見てみよう。この腹診書は絵が12枚あり、それを説明する簡単な数行の文章がある。さらに合間にやや長めの文が3段ある構成で、たかだが7ページの短い代物である。ただこの12枚の中には、比較的独創的な腹診所見がある。例えば食滞と気滞に関しての腹診所見を記載している(図1)。右季肋部の肉が付着して盛り上がり、下方に下がっているのは食滞であり、左季肋部に同様の所見があれば気滞である。また背中を見ると、左肩がこるのは気滞であり、右肩は食滞であるとしている。とくに背部診の記載は、他の腹診書にはほとんど見られない独創と思われる。しかも12図の第1枚目に書かれているのもそれを強調したかったと思われる。また五雲子流の用薬特徴もみられる。左下腹部の痞えに対して、厚朴、青皮、莪朮、香附子、黄連、三稜の類を用いるとしている。「左は肝」だから気滞という考え方が根本にあるようで厚朴、青皮、香附子を使っている。莪朮、三稜は瘀血をとるが、莪朮には腸気滞をとる効能もある。腸の湿熱には香連丸(黄連、木香)があるが、その黄連を使用していると考えられる。つまり用薬は中医的な考え方が入っているとみられる。
ただこの五雲子腹診法の内容には矛盾点がある。長文1段目「背の大抵をみて虚実を知べし」、長文2段目「平生の形恰好をみて虚実を考知すべし、古人肩を撫でて生死を決すというなり」の表現である。五雲子は皇補中を手本とし、龔廷賢(万病回春の作者)の孫弟子である。皇補中は「邪気盛則実、精気奪即虚」と中医学に忠実であり、龔廷賢も「望聞問切せずしてどうして病を知れようか」とのべている7)。龔廷賢(1522~1619)の字は子才で、号は雲林山人である8)。五雲子という号は、師匠の字と号を拝借したものと推測している。そんな人物が、古方派的腹診の発想をするであろうか。もう一つの問題点は、日本人でないとかけないような表現方法がある点である。「臍の上下がなれあいて、なんの碍なく」「これを探りて、ぐれりぐれりとする」などの表現である。香取俊光はその論文で「五雲子に氏名の由来について質問したところ、わざわざ紙に書いて答えているところをみると、会話は大変だったと思われる」と書いてある9)。それを考えると、この日本風の独特な表現は無理であろう。おそらく五雲子の12枚の腹診図と短い短文の覚書を基にして、日本流腹診を知っている人物が長文等を加筆して腹診書の体裁を整えたと考えるのが妥当と思う。
この加筆した人物を探るには、まず五雲子と森家の家系図を知る必要がある
10)(図2)。五雲子は二人の子供がいた。娘は長寿院、その弟は大原雲庵という。長寿院の名は晩年出家したためである。弟の雲庵は放蕩息子で五雲子の死後、親の財産を食いつぶしてしまう。長寿院は五雲子の弟子である高橋雲也と結婚して二児をもうける。娘は古牟女といった。息子は高橋雲統と名のり、町医者になるが34歳で夭折してしまう。夫の高橋雲也も早死にしたので長寿院は再婚して男の子を2人授かる。一人は権之助といい、森雲仙の娘を嫁にもらっている。つまり五雲子家と森雲仙とは親戚関係になったことを意味している。一方、森家との関係も見てみよう。初代の森道和と二代目の仲和は、戦国時代の著名な鍼灸師松岡意斎の弟子である。松岡意斎からは打針術と腹診法を学んだ。三代目の友益は五雲子から中医学の方薬をならった11)。4代目の中虚が打針法と腹診法を伝えるべく、意斎と仲和の奥義として『意仲玄奥』という腹診書を27歳で執筆した10)。そして7代目が有名な森立之である。三代目森友益は御典医に推挙されるが断ってしまう。そして弟弟子の金森雲仙を森家の養子として迎えて森雲仙として改名させ御典医にならせた1)。
つぎに五雲子の足取りを時系列でみてみよう(図3)。五雲子は、明国の郡守(地方大名)の子で、江戸時代初期に41歳で来日したらしい。その後、長崎に3年滞在して江戸に来る。しかし患者がなかなか来なかった。「脈とろう、脈とろう」と医術の行商をした1)。やがて名が売れ、老中堀田正盛の病を治療して有名になり御典医に推されるまでになった。しかし異国人のため、それは果たせなかった。森友益には方薬を伝授した。1660年72歳で亡くなっている。その時、長寿院は23歳。雲庵は弟だから21歳くらいか。森友益30歳だから、弟弟子の森岡雲仙は28才くらいか。長寿院は23歳で、息子の雲統が書籍相続した
10)。雲統の年齢は0~7歳くらいであろう。推定4歳としておく。すると1670年の十回忌には、高橋雲統14歳(元服)、森岡雲仙は38歳、大原雲庵31歳、森中虚1歳の年齢関係になる。1680年森岡雲仙は森雲仙に改名し御典医になり、1699年法印に上りつめ養春院法印の名を戴く9)。1702年森雲仙がなくなり、1707年長寿院70歳で死去する。高橋雲統は享年34歳だから、1690年に死亡したと思われる。このような時系列である。
これらの事実を鑑みたとき、五雲子腹診法が森雲仙の発明とすれば、いろいろ矛盾点が生じてくる。たとえば『五雲子腹診書』の最初には「男雲統筆記、森養春院法印伝家秘本」との記載がある。それで森立之は「森雲仙君が腹診法を発明して男雲統に書かせたのだろう」としている。しかし森雲仙が法印になって養春院の名前を戴くのが1699年で、雲統は1690年34歳で死去しており時系列的に無理がある。一方、男雲統の「男」には元服した男子の意味もある。雲統が元服した14歳(数えで15歳)の時、雲仙は推定38歳で、もしその頃、雲統に書かせたとすると、五雲子の二番弟子が自分の考案した腹診法を師匠の孫に書かせたことになる。38歳で家伝とする腹診法を書き下ろしてしまうだろうか。師匠の教えと異なる虚実の判断方法を家伝の本に記載するだろうか。森家の秘伝を五雲子家に書かせるだろうか。そう考えると森雲仙説には無理がある。
そこで、私は長寿院説を提唱したい。五雲子が死去し、遺言で推定4歳の雲統が書籍をもらった10)。管理していたのは母親の長寿院であろう。五雲子には自筆本として「袖珍蔵秘」と「外科勝積」があった12)。それとは別に書籍の中には五雲子の12枚の腹診図と覚書きのようなものがあったのだろう。父の遺志をつがせるため、長寿院は子供が元服した五雲子の十回忌(1670年)に、夫(五雲子の弟子で藩医)の協力を得て『五雲子腹診法』を加筆してまとめて子供雲統に筆記させたのだと思う。しかし雲統は1690年、推定34歳で夭折してしまう。つまりこの時、長寿院のもとには、五雲子の2冊の本と雲統に筆記させた『五雲子腹診法』が残された。本来は後継ぎになるべき弟・大原雲庵に譲るべきなのだろうが、彼は放蕩して父の財産を使い果たしてしまい、その後隠居生活を送っていた。そこで1696年、五雲子の37回忌に当たる年、長寿院はわが子のように愛していた中虚に五雲子の遺品である2冊の本を9月に寄贈している12)。その年の2月、中虚は『意仲玄奥』を書き上げていた12)。かれは意斎流腹診、打針術の正統な伝承者であることを『意仲玄奥』を執筆して訴えようとしていた13)。長寿院はそんな彼に『五雲子腹診法』を渡せなかったのだろう。それから3年後、森雲仙が将軍より養春院法印の名前を戴く9)。そこで、長寿院は息子権之助の嫁の父親である森養春院に、お祝いとして『五雲子腹診法』を贈呈したと思われる。それで森雲仙は「男雲統筆記」の横に「森養春院法印伝家秘本」と加筆したのだろう。これが私の推論である。
また、こう考えると前出の問題点が解決する。『五雲子腹診法』は、五雲子の独創がある一方、五雲子流(中医学)に相反する考え方が共存している点である。これは、長寿院が腹診に対して浅学のためで、古方派の考え方も導入して加筆したせいであろう。また日本人でないとかけない表現があった。「なれあいて」「ぐれりぐれり」の表現である。これは、日本で生まれ育った長寿院なら可能である。また各節の上に、「家君(父君の意味)曰く」とあるのも長寿院から見れば当然である。以上の考察から、『五雲子腹診法』は五雲子の亡き後、娘の長寿院が五雲子の遺品である腹診図を整理、加筆して息子の雲統に筆記させたものである。そして森雲仙が森養春院法印に出世した時に長寿院から寄贈されたものであると推論する。
【あとがき】

五雲子の墓は三田大乘寺との記載がある1)が、現在その寺はない。どういう経緯か分からぬが、大田区洗足池のほとりにある妙福寺に五雲子の石碑が立っている。石碑の裏側には五雲子の墓と彫られているので、彼はここに眠っているのだろう。また石碑には「崇祯3年(日本宽永9壬申年)に僧如定と来日」とある。崇祯5年は1631
年で五雲子43歳。宽永9壬申年は1632年で五雲子44歳となる。如定とは長崎県の眼鏡橋を建築した人物である。

図1

家君曰「先ず人背の模様を知るべし、肩の周りは、骨の会するところなるによりて、気血滞るやすし。心督の辺を推すときは食郁の証をしるべし。左の方、心督膈を推とき、みぎの京門隆脹するは、是思慮多くして心肝郁する故なり。」                     

 

家君曰「此の如く左へ痞えたるは、厚朴、青皮、莪朮、香附子、黄連、三稜の類を用べし、然れども総体見合すべし。」

家君曰「此の如く、右方の筋骨下がり、或いは高くなるは常に食養生の悪しき人と知るべし,飲食濁気上りて痰となり筋骨に粘着して骨高くなり、清気の昇らざる故に筋骨さがるなり」

 

家君曰「このようにだんだんなるもの、二十腹と号す、病邪 の者の腹なり、細き帯の如く、これをさぐれば、ぐれりぐれりとするは、脾胃虚、大包のゆるまるなり。」

家君曰「左肋骨下がり、あるいは高くなるは、気を労する人と知るべし、あるいは軍法等書籍に心力をつくすか、あるいは平生謀慮して心力を労するかなどにて心肝鬱滞する人この如しと知るべし」

 

 

 



 

 



図2

図3

文献
1)戸出一郎:王寧宇五雲子伝『矢数道明先生退任記念東洋医学論集』、p198~209、
北里研究所附属東洋医学総合研究所。1986年    
2)多紀茝庭:診病奇侅「五雲子腹診法」、p87~p94、和漢医学社、東京、1996年
3)多紀茝庭:診病奇侅、p93~p94、和漢医学社、東京、1996年
4)中村昭:『五雲子腹候論』について、漢方の臨床第35巻第9号、p62~p69
5)多紀茝庭:診病奇侅、p20、和漢医学社、東京、1996年
6)多紀茝庭:診病奇侅、p12、和漢医学社、東京、1996年
7)龔廷賢:万病回春、p482、人民衛生出版社、北京、2007年
8)龔廷賢:万病回春、p1、人民衛生出版社、北京、2007年
9)香取俊光:『五雲子先生伝』『森氏由緒書』翻印、漢方の臨床第38巻第10号、p55~p64、1991、
10)小曽戸洋:日本腹診の源流、p118、六然社、東京、2003年
11)小曽戸洋:日本腹診の源流、pⅱ、六然社、東京、2003年
12)小曽戸洋:日本腹診の源流、p145、六然社、東京、2003年
13)小曽戸洋:日本腹診の源流、p129、六然社、東京、2003年

 

 

 
 
 
 
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