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    ドクターエッセー 第44回  閑話休題: シルクロード記その二  
 

敦煌市の南方に鳴砂山があります。砂でできた山で風によって移動します。このふもとには月岳泉という砂漠のオアシスがあります。水源は祁連(きれん)山脈の雪解け水が地下にしみ込んだもので、漢時代から水が途絶えたことがないそうです。趙行徳が経典をかくした石窟はこの山の近くにあります。おそらく彼はこの鳴砂山をとおって莫高窟(石窟)までいき、経典を隠したのでしょう。ここでラクダに乗り揺られていると往時のシルクロードの旅人気分を味わえます。(写真1)しかし、それは想像を絶する過酷な旅だったようです。昔の漢文につぎのような一節があります。「沙河(敦煌の付近)中、多く悪鬼熱風あり。遭えば即ち皆死す。」「上に飛ぶ鳥なく、下に走る獣なく、ただ死人の枯骨を以て、標識となすのみ。」   
敦煌の西方には陽関という関所があります。ここはシルクロードの西域南道の最初の関所になります。唐の詩人王維の詩に「送元二使安西」があります。その詩の最後に「西出陽関無個人(西のかた陽関をいづれば故人なからん)」とあります。そこで陽関と名が出てきます。陽関より先は先ほどの漢文のようなところに行くわけです。今生の別れかも知れない思いで友人との別れを惜しむ歌です。陽関の関所は地下に埋もれており、のろし台だけが1200年前のまま残っています。そこでは復元した関所と博物館が見学できます。広場の前に銅像がありました。張塞の彫像です。漢の武帝がシルクロードの開拓を命じた人物です。彼のおかげでシルクロードができ日本もその交易の恩恵をうけました。
敦煌は日本から直通で行けません。途中一泊する必要があります。それで西安に泊まったのですが、そこは昔の長安で碁盤の目の区画は昔のままです。そして町を防御する大きな城壁は今も健在です。長安の郊外には秦の始皇帝の兵馬俑があります。ここは農民が土葬の為に墓を掘っていた時に偶然見つけたとのことです。約2000年も地中に眠っていた土偶たちです。始皇帝の陵は小高い山となっています。兵馬俑はその陵から2.2km離れたところで見つかっています。推定するに陵を中心にして少なくとも半径2.2kmのなかには始皇帝とともに埋葬されたものが埋まっているのでしょう。当時の秦の始皇帝の権力がいかに強大であったかが伺えます。

西安には弘法大師が修業した青龍寺もありました。若き日の彼の銅像がありました。シルクロードを渡った三蔵法師から200年後に、若き空海がこの地で修業したのです。シルクロードの町々には古代中国をしのぶものが多くありました。



写真:砂でできた鳴砂山とラクダの隊列です

 
 
 
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